沖縄セルラー電話株式会社設立
1990(平成2)年10月、沖縄懇話会(以下、懇話会)の設立総会の席上で、京セラの稲盛和夫会長は「沖縄のための携帯電話会社をつくる」と、突然表明した。同時に「料金設定をNTTドコモの半額程度を目指したい」と続け、会場からは驚きと賛意の声が上がった。
当時の移動体通信は、安価で持ち運びやすい「ポケットベル」が主流。自動車電話や携帯電話は価格が高く、一般には普及していなかった。また、島嶼県である沖縄では、通信インフラを整備し、本土との格差を埋めることが大きな課題とされていた。携帯電話が出始めの時期であり、沖縄の携帯電話市場はNTTドコモの独占状態にあった。価格設定も一般のビジネスマンが気軽に持てる額ではなく、新携帯会社の参入に期待が集まった。また、携帯電話会社を設立する上で稲盛氏がこだわり抜いたのは「地元企業であること」。当初は九州セルラー電話の支店にという案もあったが、沖縄の経済自立のためにも、県民が参画する地元企業というのは譲れない一線だった。
設立に向けて稲盛氏は、懇話会の沖縄側幹事であった崎間晃氏、小禄邦男氏、稲嶺惠一氏に協力を依頼。1991(平成3)年3月には設立準備会が発足し、同年5月には株の募集が開始された。株主比率は本土側6割、沖縄側4割。発行価格の全額3億円の出資があった。事業が軌道に乗るまでの間、無報酬で社長を務めた稲嶺氏を筆頭に、多くの財界人の尽力があり、1991(平成3)年6月に設立が実現した。 基地局の建設や代理店ネットワークの構築を進め、1992(平成4)年3月に携帯電話の予約を開始。料金は加入費・基本使用料・通話料金、どれもドコモより安く設定し、瞬く間に目標台数を突破。懇話会をはじめとする財界からの期待に応える形でのスタートとなった。
沖縄県民には「au」のブランド名と共に、「沖縄セルラー」または「セルラー」の略称で親しまれている沖縄セルラー電話株式会社。「離島にも強い」との定評があり、沖縄のインフラ企業として生活に欠かせない存在となっている。写真は那覇市内の沖縄セルラー電話本社ビル。