小禄邦男43懇話会や懇話会のメンバーの動きによって、大きな物事が具体的に進んでいく。こんな楽しいことはありませんでした。ただ、世代交代は少々寂しいですね。設立当時のメンバーは戦争を知っていて、沖縄に対する何らかの意識がありました。本当に心から動いていただき、それに我々も甘えていたのかもしれない。年代層が変わって、皆さん思いが違う。これからの人たちは、私達のように甘えているだけではダメで、むしろこちらから積極的に本土側に提案をしないといけない難しさがあると思います。今も大交易会などは非常に面白い形で進んでいますから、もっと幅を広げてやっていきたい。おんぶにだっこではなく、沖縄側でできるもの、国策にプラスになるものについては積極的にやっていく。いろんな面で沖縄の地理的な優位性はありますし、歴史的な経緯をふり返っても沖縄の果たす役割は必ずあると信じています。物事は、種をいつまくか。種をまかないといつまでも実らないわけですよ。昔は懇話会のメンバーがよく集まって、沖縄の経済はどうあるべきかという話をしていました。それぞれ力を持っていましたから、具体的にそのために動いた。本土側のメンバーにも動いてもらったし、もちろん政府にも動いてもらわないと進まないこともあります。大田さんが知事の時、ゴルフバッグをかついで韓国に行って、向こうの人たちとも交流しました。観光にしても、いろんな面で種をまいたのが、30年かけて実ってきたと思います。國場幸一郎さんは、魚よりか釣具を下さいと本土に言ったわけですね。つまり補助金をもらうよりも、未来につながるシステムをしっかりして欲しいと。例えばモノレール構想を最初に言い出したのは西銘さんで、策定したのは大田さん、私の時に開通して、このたび浦添まで延伸しました。私が心配しているのは、最近はほとんど種をまいていないこと。もっとみんなで考えていかないといけません。私は、沖縄が一体化することが重要だと思っています。プロパガンダじゃなくて、本当の意味のオール沖縄。一番いい例はサミットですよ。政治的に決定できた背景には、全県で応援したことがあります。県内全土で署名活動をやったり、県議会議員みんな総理官邸に乗り込んだり、サミットのためにやろうという思いで進んだ。大同小異の大同はみんなが団結すること。小異どころじゃない違いはありましたが、お互いに妥協しあうことが重要です。ベストを求めたら、いつまでたってもナッシングですよ。ベターなものを考えていかなくてはいけない。諸井さんがいつも私に言っていたのは、どんなに沖縄が要望しても、国民の6〜7割、つまりマジョリティの了解を取れないと進められないということです。マジョリティの理解を得るために、沖縄は積極的に考えるべきです。プロフィールいなみね けいいち1933(昭和8)年、中国遼寧省大連市生まれ。慶應義塾大学を卒業後、いすゞ自動車株式会社入社。1973(昭和48)年、琉球石油株式会社に入社し、1986(昭和61)年より株式会社琉球石油(現りゅうせき)代表取締役社長就任。沖縄経済同友会特別幹事、沖縄県経営者協会会長、日本トランスオーシャン航空株式会社取締役会長、沖縄県青年海外協力隊を支援する会会長などを歴任し、1998(平成10)年より沖縄県知事を2期つとめる。沖縄懇話会には設立時より関わり、1996(平成8)年より代表幹事、1998(平成10)年より顧問をつとめ、現在に至る。――この30年をふり返って、稲嶺さんにとって、懇話会とはどのような存在でしたか?――この30年の沖縄をどう評価されますか?――これからの沖縄を考える上で、種をまくために大切なことは何でしょうか?
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