沖縄懇話会30周年記念誌
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41の状況を聞いてみよう」という話になって、呼ばれたのが崎間晃さんと小禄さんと私。その辺から交流が進んだわけですね。その頃、石山さんという方が南部戦跡を回られて、中山さんに「沖縄は戦争でこれだけ苦労した。我々は是非沖縄のためにやるべきだ」と提言をされました。そこで中山さんも「それはいい」とおっしゃって、呼ばれたのが牛尾さんと諸井虔さんです。本土側の財界人と、沖縄の財界人が一緒になって懇話会を作ろうと。沖縄のためになることをしようというのでスタートしたんですよ。柱は中山素平さんですね。中山素平さんは当時財界の鞍馬天狗と言われて、皆さんに尊敬され、非常に影響力のある方でした。私利私欲がなく、国家のためにやれる方だったから、そういう思想のもとに集まる人がいっぱいいたんです。牛尾さん、諸井さん、稲盛さん、セコムの飯田さん、アイ・ビー・エムの椎名さん、ダイキンの山田さん…いわゆる中山学校です。本土側は中山学校のメンバーを中心に構成された。沖縄で一番の功労者は初代の代表幹事、崎間さんでしょうね。この方を中心に、沖縄を一本にまとめたから。設立当時は、プライベートでもいろんな形で友達づきあいをして、もっと親密な雰囲気でした。普天間返還の話もここから始まったわけです。橋本龍太郎さんが諸井さんに、沖縄に一番詳しいのはあなただから、沖縄に行って話を聞いて来てくれと言った。諸井さんと大田知事が話をする、それをセットしたのは、崎間晃さんを中心とする懇話会のメンバーです。その中で大田さんが一番望むのは、普天間飛行場の移設だと。それを受けて諸井さんが橋本さんに直訴して、橋本さんがすぐにモンデール駐日大使に話をしてね。当時の外務省の反対を押し切って話を進めて。非常に強力なバックアップ体制でしたね。例えば私が知事になってすぐ、懇話会メンバーが東京で祝賀会を開いてくれた。マスコミの方をいっぱい呼んで、例えば筑紫哲也さん、船橋洋一さん、嶌信彦さんですね。それから経済学者の島田晴雄さんとか。そこで、是非沖縄でサミットを誘致しようという話をした。つまり、私の祝賀会の名を借りて、サミットの誘致運動をやったんですよ。当時の懇話会には、沖縄のありとあらゆる問題に、いろんな意味でバックアップしていただきました。本当に大変な力でしたね。今からは想像ができない。――発起人は中山素平さんでしたか。――普天間返還交渉の際、沖縄懇話会が果たした役割について教えてください。――それは強力ですね。経済人として、沖縄県知事として。沖縄の発展のために動き、懇話会と共にあった30年を語る。

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