29なって本土復帰を目指した頃から。実は沖縄の経済人とのつきあいは古いんですよ。その後、1983(昭和58)年に沖縄経済同友会が設立された時の宣言文に、僕はすごく感動しましてね。これこそ1946(昭和21)年、戦後の東京で経済同友会ができたときと同じ精神だろう、と。83(昭和58)年当時、僕は経済同友会の副代表幹事をしていたので、『沖縄にすごいのができたから、すぐに行ってきます!』と言って、本当に沖縄へ来た。日本本土との交流を持って、僕らがバックアップするからと。僕に言わせてみると沖縄経済同友会の発足宣言っていうのは、やっぱり沖縄を変えた。沖縄懇話会ができたきっかけは、中山素平さんと稲盛和夫さんですよ。稲盛さんが素平さんを連れて来て、お前も来いって言われました。その頃、僕は沖縄の離島にも行って、沖縄を知っていましたから」「沖縄は米軍に支配されていたし、沖縄の経営者も英語が上手な人はやっぱりアメリカと仕事をしていた。復帰をしたくないという経営者も半分くらいいましたよ。 利害関係が色々あって、沖縄も全員が一致するわけではない。沖縄の経済界の中に『今の方がはるかにビジネスは良い』『復帰をする時にビジネスは減る』と堂々と言う人がいっぱいいました。ただ、僕らは早く沖縄と本土が一緒になることが一番大事だという信念を持っていますから。沖縄青年会議所の人たちも、最初は反対する人が多かったんですが、段々と復帰を望む人が増えてきた」「発足してすぐに僕は大田知事と会って、普天間返還は若い人が中心になってやるべきだということを話していました。当時の沖縄の政治勢力の方には反米が多かったが、大田知事に説明したいと諸井さんに呼ばれ、僕から大田知事のスケジュールを取って諸井さんに会談させた。これがその後総理になった橋本龍太郎さんが初めての日米首脳会談の際に普天間返還の話をするきっかけになった、普天間問題のスタートになったかもしれません。アメリカの動きも早かったなと思います。「小渕恵三さんも、沖縄には一生懸命だった。サミットの会場が九州に決まっていたのをひっくり返して、沖縄でやろうじゃないかと言ったんですよ。僕は総理の気持ちがよくわかりました。九州の人たちもよく我慢してくれましたよね。沖縄で開催する方が、意味があると譲ってくれたんですよ。その後、小渕さんが急逝されて、サミット本番の時には森喜朗さんが総理大臣でしたが」――復帰前の沖縄の印象はいかがでしたか?――沖縄懇話会の発足当時は、メンバーの皆さんの雰囲気はいかがでしたか?――牛尾さんの橋本ルートは、沖縄にとって大きかったですね。橋本さんだけでなく、沖縄のために動いてくれる政治家の先生方がいらっしゃいましたね。本土と沖縄の経済人を結びつけ、沖縄の発展を支えてきた沖縄懇話会設立からのキーパーソン。
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